ちっとも華麗じゃない独り言
12/Sep/2001(Wed)
『イワン篇・5』
ぽかぽかと暖かいある日の昼下がり、空腹を覚えたイワンは以前悪魔に与えられたグレープフルーツの存在を思い出した。早速切り与えてもらおうと思ったが、あいにく悪魔は座を外していた。そこでイワンは自ら試みるべく、包丁を探して台所の引き出しに片端から手を掛けていった。
包丁を扱うのは幼いイワンには勿論初めての行為だった。周囲を見回して誰の目も注がれていない事を確認すると、巨木の林立する立入厳禁の神域に一人で足を踏み入れるような戦慄を味わいながら、包丁の刃先をゆっくりとグレープフルーツに突き立てた。
力をひと入れするごとに果肉に沈んでいく刃先を細目で眺めながら、イワンは想像をはるかに超える包丁の切れ味に始終驚愕を感じていた。切断の最後の過程を終えた包丁の刃先がすとんと俎板に下りた時、断面から果汁がしたたり落ちるのと同様に自身の額にも冷や汗がにじんでいる事に気付いた。
イワンは刃先に垂れる果汁を舌を滑らせて舐め取ると、この妖しく反射する鋭利な凶器をしばらくじっと見詰めていた。
21/Jul/2001(Sat)
『オールスター雑感』
今日のオールスターは数年振りに楽しめた気がする。何年か前のオールスターで江藤か誰か忘れたがとにかく内野ゴロを打った時に全力疾走どころか超適当にテレテレ走ったのを見て、あまりの真剣味のなさに「何じゃこりゃ」と思ってそれ以来あまり関心を持たなかった。オールスターは「ツマラナイ」という固定観念ができた。
でも今年はパリーグの打線が迫力満点で、全パの打者VS全セの投手という構図、もっと云えば中村ノリやローズやカブレラが如何に全セの投手をメッタ打ちにするかという構図が面白くて、ついつい最後まで観てしまった。勿論今日は彼らクリンナップだけじゃなくて先頭打者の松井稼頭央やオリックスの谷も大活躍で、パリーグファンとしては大いに溜飲を下げた。ダイエー勢はあまり元気がなくて目立たなかったけどまぁよしとしよう。
どうやら今年はオールスターの楽しみ方が分かったような気がする。喩えば投手が打者に対して時には憎悪の炎すら燃やしながら対決するという、そういう色合いの真剣勝負はそもそもオールスターに望むべくもなかったのだ。公式戦ではないから真剣勝負でないのは当たり前と思わなければならない。
投手の立場からするとインコースに投げてぶつけて怪我でもさせたら大変だし、四球を出せば打者からもベンチからもファンからもブーイングを受ける。打者にとっては四球で歩いても何にもならない。つまり基本的にオールスターではストライクゾーンに真っ直ぐ系で勝負せざるを得ないという、投球術的に極めて不利な条件での対戦なのだ。そこには公式戦に見られるような「1塁が空いてるから四球で逃げる」とか「変化球でかわす」という発想は持ち込めないので、どんな手を使ってでも試合に勝つ事を最優先するという、そういう意味での真剣勝負はそもそも成立し得ないのである。オールスターとは打高投低が大前提となっている特殊な試合なのだ。
そしてオールスターではその日のMVPが誰になるかというのが最大の関心事である。大体今までの傾向として打者ならホームランか猛打賞(3安打以上)、あるいは逆転打、決勝打、超ファインプレー。投手ならノーヒットピッチングか奪三振数の多さ等が評価基準になっている。
結論から云うとオールスターの楽しみ方とは「MVPを獲るという選手の気持ちにシンクロしながら観る」事に尽きると思う。これを具体的に云うと、まず打者を観る時には「ここで凄いのを打って絶対MVPを獲ってやる」というオーラを感じ取る。パワーヒッターならヘルメットが飛ぶようなフルスイング、アベレージヒッターなら甘い球を見逃さないシュアなバッティングや流し打ちの華麗さに注目してもいいだろう。
そして凡打だったり単打だったりした時には選手と同じくがっかりし、すぐさま関心を次の打者に移す。打者にとってはMVP選考委員の目を釘付けにするような打球以外は何の意味も持たないのだ。そういう意味においては凡打を打って適当に1塁に走るという江藤の怠慢プレーも実は許容される行為だったのだ。凡打を打ってしまえばその打席はMVP選考の評価対象から除外されるのだから。我々もそういう見方をしなければ本当の楽しみ方は味わえない。
次に投手を見る時は1人1人確実にアウトにしていこうという丁寧さに注目する。実はここが大事なポイントで、これが公式戦とは全然違う所なのだ。投手にとってオールスターでMVPを獲るのは打者よりも至難の業である。何故なら規定で1人の投手が投げられるのは3イニングスまでと決まっているので(これは江夏の9連続奪三振が永遠に破られない記録と云われる理由でもある)、たった3イニングスで自分をアピールするにはノーヒットに抑えるしかない。ヒットを1本でも打たれた瞬間にその投手は選考対象から外れてしまう。
公式戦ならそのイニングのトータルとして無失点に抑える事を考えるので、ヒット1本や四球1つはそれほど重要ではない。極端な話、無死満塁になってもその後3者凡退に抑えれば何の問題もない。しかしオールスターでは投手にとってヒット1本や四球1つが決定的な意味を持っている。だからオールスターで投手を観察する時には細いロープの上を綱渡りしているような彼らの心境にシンクロすべし。そしてヒットを打たれた瞬間にガクッと落ち込む表情を見逃してはいけない。逆にノーヒットで抑えているなら「もしかしたらこいつがMVP獲るかも」なんて期待しながら見守るのだ。
こういう見方が分かったので今年のオールスターは大いに楽しめたが、3試合もあるのはいささか長過ぎると思う。メジャーのように1試合だけにした方が権威も高まるし試合も引き締まるのではないか。まあ日本では某電機メーカーがスポンサーについて冠大会になってしまっているので、当面この状況は変わるまい。メーカーにしてみれば大金を投じているのにたった1試合で終わられたのでは元が取れないのだろう。こういう所に日米の野球に対する畏敬の度合いが窺えるというものである。
10/Jul/2001(Tue)
『イワン篇・4』
ある柔らかな日差しの降り注ぐ昼下がり、暇を持て余したイワンは池の外周に沿って庭を巡っていた。ふと足下に視線を投じると、そこには一匹の蛙がいた。蛙はその小さな背面に握りこぶし大の石を載せられて微動さえ封じられていた。その人為的な戒めは確かに悪魔の気まぐれによるいたずらに違いなかった。
蛙の直下にある地面のえぐられた跡は、突如として課せられた災難との抵抗と格闘を雄弁に物語っていた。しかし蛙の半ば閉じられた眼から発する視線には、ついに敗北の事実を受け入れざるを得なかった無力感と、運命の支配には決して抗い得ないと悟った諦観とが同居していた。
その徐々に狭まる視界にイワンの侵入を認めた刹那、生気を奪われた蛙の瞳は最後の光芒を宿した。謂れのない重荷からの解放と自由を訴える鈍い光にイワンはたちまち射抜かれた。イワンが意識したにせよしなかったにせよ、蛙に対する憐憫の情は悪魔の許可無しにはどこにも赴けない自身の心もちに微妙に作用したらしかった。
イワンが右手に掴んだ石をそっと持ち上げるか早いか、蛙は全肺に自由の空気を吸い込んだ。たちまちに一変した世界の中を蛙の四肢は右に左に跳ねて行った。イワンはその軌跡を楽しそうに眺めていたが、やがて庭を越えて往来に出た蛙はあっという間に車輪の下に轢かれて果てた。
石を持ち上げた行為は果たして蛙の幸福の扉を開いたのか否か、それを吟味するにはイワンはまだ幼過ぎた。
15/Jun/2001(Fri)
『ちきゅうにやさしい』
この世は欺瞞に充ち満ちている。
「地球に優しい」という言葉が日常的に使われるようになって久しい。環境に配慮した製品のCMは「地球に優しい」を謳い文句にし、処理時に有毒ガスを発生しない包装には「地球に優しい」というフレーズが誇らしく刻まれ、「地球に優しい」生活をする為にはお米の研ぎ汁を排水溝に流す事さえ憚られる時代になっている。
そして生態系を破壊するような人間の営為は環境保護団体に声高に非難される。喩えば森林の伐採。喩えば石油や石炭など化石燃料の燃焼。喩えば海産物の乱獲。喩えば二酸化炭素排出量の増加。喩えばフロンガスによるオゾン層の破壊。喩えば重金属による土壌の汚染。
また希少動物種の保護を目的としたワシントン条約という国際法規がある。毛皮や象牙や甲羅を用いた輸入品はしばしばこの条約に違反しているとの疑いを持たれ税関で摘発される。曰く「人間の都合で動物を絶滅に追いやる事は許されない」と。数百年にわたり日本文化の一部として培われてきた捕鯨も同様の理由で西洋諸国から糾弾を受ける。
しかし一旦立ち止まって地球上の生物の進化の歴史を考えてみよう。45億年の地球の歴史は無数の生物の栄枯盛衰の歴史である。現存する生物種の数よりも既に絶滅した生物種のそれの方が比較にならぬほど多かろう。三葉虫は化石になり、恐竜も既に滅び去った。種の絶滅は時代の波に呑まれた運命の結果である。
さて原始地球の大気は二酸化炭素で満ちていた。そこには二酸化炭素を呼吸する生物が我が世の春を謳歌していた。しかし時代のターニングポイントは必ず訪れる。二酸化炭素を吸い酸素を吐き出す藻は海中での繁殖を開始し、やがてその爆発的な増殖と共に地球の大気は酸素で満ちるようになった。当然の事ながら二酸化炭素を呼吸する生物は今まで占めていた地位を奪われ、絶滅の一途をたどるしかなかった。それに対して酸素を吐いた藻が責任を負う理由は全くない。生物というのはそもそも自己の営為による結果責任は一切負わぬ存在である。
「人間の無定見な環境破壊が続けば地球は死の惑星になる」という噴飯ものの議論がある。そのような暴論は地球への冒涜である。何故冒涜か? NASAの研究者によるこのような実験がある。小さな実験箱の中に月の環境を再現し、様々な種類の微生物を撒いて観察した。月の環境とは極寒、無気圧、無酸素の過酷な条件である。予想通り大部分の微生物は初日に死に絶えた。しかし驚くべき事に数種の微生物は過酷な環境にも屈せず生き延び続けたという。
すなわち生物の生命力というのは我々凡庸な人間が考える以上に遥かに強靭である。もし森林の過度の伐採により酸素供給が減少すれば、やがて二酸化炭素や窒素を呼吸する生物が主役となり繁栄を極めるだろう。もしフロンガスによりオゾン層が破壊され紫外線が雨のように降り注ぐようになれば、やがて必ず紫外線に強力な耐性を持つ新種が現れ人類に取って代わるだろう。もし全面核戦争が起きて放射能を帯びた厚い死の灰が地上を覆う日が来れば、やがて放射能をものともしない微生物が現れ、死屍累々を乗り越えて新しい進化の第一歩を力強く踏み出す事だろう。
我らの地球の懐は人間の浅薄な想像力など及ばぬほど深く大きい。我々人類の出現は十億年単位で宇宙を旅する地球号に生起する壮大な消長史の区々たる一コマに過ぎない。その人類が自らの力を過大評価し地球の行く末を案じて云々するのは僭越の極みである。生物の生命力は強靭な上にも強靭である。地球の包容力は広大な上にも広大である。
よって「地球に優しい」とは実は「人類に優しい」の欺瞞に他ならない。「人類に優しい」を謳うのであれば何の矛盾もない。温暖化が進行すれば極地の氷が溶け出し臨海都市は水没する。紫外線が降り注げば人類の死因第一位は皮膚癌に代わる。河海に蓄積する重金属による中毒は催奇形性や身体障害を招く。環境破壊が人類の破滅をもたらすならば確かに我々は「人類に優しい」世界の構築に努めねばならない。しかし喩え人類が破滅しようと地球は全く何事もなかったかのように涼しい顔をして太陽を周回し、次の主役の為に舞台を提供するだろう。地球の立場からすれば「地球に優しい」など無知で思い上がった人類の傲慢に過ぎない。
この世は欺瞞に充ち満ちている。
09/Jun/2001(Sat)
『イワン篇・3』
ある暖かい昼下がり、悪魔はイワンに一寸半ほどの小さな藁人形の作り方を教えた。最初は庭に横たわっていた藁人形も悪魔が指をぱちりと鳴らすと同時に命を吹き込まれ、よろめきながら起き上がった。それを見たイワンは興に乗じ、庭の隅に山のように積んであった藁を片端から人形にした。悪魔も人形ができる端から命を吹き込んでいった。
造り上げられた無数の藁人形は庭の池の近くに集落を築いた。集落は村になり町になり、やがて冒険的な一団は藁船を建造し池を渡り、対岸に別の町を発達させた。両岸で造船業は隆盛を極め、交易が始まった。港には活気がみなぎり、両岸の町は競い合うように発展を重ねた。文明の進化は祭礼を執り行なう神官を生み出し、彫刻を生業とする芸術家を生み出し、上臈に奉仕する奴隷を生み出した。それらの様子をイワンは如何にも楽しそうに眺めていた。
きっかけは意外な所にあった。波止場で甲の町の船乗りが投げ捨てた煙草の火が完全に消えておらず、誤ってそれを踏んだ乙の町の船乗りが焼死した。火傷程度に留めておくには藁人形の身体は余りにも燃えやすかった。火の矢は瞬く間に数億倍の炎塊となって乙の町を焦土と化した。飽き足らぬ炎が次の獲物を求めて甲の町を呑み尽くすのにさほど時間は掛からなかった。かくして藁人形の世界は悉く灰燼に帰した。
「所詮こうなる運命なんだよ」
そう言い残して去った悪魔を横目にイワンは一人黙々と残骸を片付けた。
03/Jun/2001(Sun)
『キウイ・オンザ・ショートケーキ』
「たまにはこういうファミレスも悪くないですよね」
「ええたまにはいいですね」
「週末の釣果は如何でした?」
「よくもなく悪くもなくと云った所でしょうか」
「あ、そういえば最近新しいご趣味を始められたとか」
「奇行の事ですか?」
「へえ気功ですか」
「これが結構楽しいんですよ」
「私は肩凝りがひどいけどこういうのも治せるんでしょう?」
「奇行で治すのはちょっと難しいかもしれませんね」
「でも気功って整体がメインなんですよね?」
「確かに声帯は大事です」
「じゃあ肩凝りじゃなくてもいいけどちょっとやってもらえませんか」
「いいですよ。では・・・うきゃー」
「わあ一体どうしたんです急にコップを天井に投げつけたりして」
「これが奇行ですよ」
「へ? 気功って手を身体に当てて念力を送る奴じゃないんですか」
「ああそれは空気の気に功罪の功と書く気功でしょう」
「ひょっとして奇人変人の奇に行動の行って書く奇行の方ですか」
「そうですそうです」
「何でまたそんなのを始めたんですか」
「楽しいからですよ」
「楽しいって云ってもコップが跳ねたりしたら周りに迷惑でしょう」
「なに人間なんて毎分毎秒周りに迷惑を掛けながら生きている動物ですよ」
「まあそれはそうかも知れませんけど」
「ところで突然コップを天井に投げつけるのは奇行ですか」
「そりゃあ世間では奇行と云われるでしょうねえ」
「そこです、世間って何ですか? 誰が世間ですか?」
「え」
「世の中に奇行認定委員会とかありますか? 何が普通で何が一般ですか?」
「そんな急に云われても・・・」
「『普通はしない事』『世間一般の人はしない事』が奇行だとしたら
普通とか世間一般というのは実体のない空気みたいなものですよ」
「しかしそうは云っても今の社会では奇行と見做されるのは事実でしょう」
「そこが重要なポイントなんです」
「重要なポイント?」
「ええ、『今の社会では』という前提が大事で、例えば食事どきに一斉にコップを投げる
習慣のある国では投げない方がむしろ奇行と見做されるでしょう」
「そう云われてみればそうかも知れませんね」
「所詮価値観は相対的で、コップ投げの行為自体に絶対性が内包される訳ではありません」
「ん、ちょっと待って下さい、そもそも奇行って云い出したのはあなたでしょう?」
「はは、それはそうですけどね」
「それなのに奇行を否定するような事を云って訳が分かりません」
「奇行癖のある人というのは本人は至極真っ当な事をしているつもりでいますが、
こんな風に自分で奇行を奇行と宣言していれば奇行は奇行でなくなるものですよ」
「つまりあなたはコップ投げは全然奇行だと思っていないのですね」
「周りから見て奇行であってもその人にとって合目的的な行為であれば
それはその人にとってはちっとも奇行ではありません」
「目的?」
「あそこに蚊が止まっていたのですよ」
25/May/2001(Fri)
『願文』
夫れ顧みれば吾人大学に入学してより已来春秋を送り迎うること早や五星霜に過ぎたり。さる間渡米渡英渡香渡埃を始めとしてその所願成就せること度々に及べりと雖も、猶未だ達せざる悲願これ有り。即ち高額宝くじに当選することなり。吾人如何なる時も十枚未満を購入すること無きが故に未だ嘗て末等を外す例し無し、然れども準末等に当選するは現今に至るまで甚だ困難を極めたり。準末等すら且つ斯くの如し、而るを況や一等に於いてをや。猶況や一等前後賞同時当選に於いてをや。或人吾人に問うて曰く宝くじを購入するは是ひとえに金貨を溝に投ずるに豈異ならずやと。吾人かの問いに答うるに「不入虎穴不得虎子」の比喩を以ってしたり。即ち宝くじを購入するは猶泡沫の千金を狙うが如し、然れども若し購入を避くれば素より当選すること能わず、一枚なりとも買い求むれば自ずから一縷の望み出来す。無は有に如かず、盍ぞ購入せざるやと。斯くの如くして吾人敢えて宝くじを購入せざる能わず。今時も例に漏れずして博多駅前にて購いし連番十枚を早や懐中に収むるに至れり。嗚呼冀わくは今春こそ吾人が至誠天に通じて当選の栄華に浴せしめんことを。合掌。
17/May/2001(Thu)
『イワン篇・2』
春の陽気が暖かなある日の午後、悪魔はイワンを誘って太宰府の某公園へと出掛けて行った。その公園の一隅には悪魔しか知らない古井戸が隠されていた。悪魔は古井戸を覆う石造りの天蓋を除いてイワンの視線を奥底に向けさせた。
井戸を覗き込むと底の水面が見えぬほど真っ暗で、街中の公園にあるにしては存外深いらしかった。イワンは試しに手近にある小石を落としてみた。しばらくの沈黙の後、不意にぽちゃという水面を破る音が響いた。その沈黙の長さから推し量って水面は十丈ほど地下にあるようだった。イワンは興をそそられ、先ほどより一回り大きい石を落としてみた。今度はぽちゃんという音がした。
イワンはますます楽しくなって更に大きな石を探そうと周囲を見渡した。しかし視界の中にはあれより大きな石は見当たらなかった。あれより大きな石があればもっと大きな音が鳴るだろうにと未練がましくあちこちに視線を投げていると、突然頭上を暗い影が覆った。イワンが振り返った瞬間悪魔に両手で掴まれ井戸に突き落とされた。今度はばしゃんという音がした。
何度助けを呼んでも悪魔は救いの手を差し伸べてはくれなかった。どんなに困難でもイワンは自力で地上まで這い上がらねばならない。
13/May/2001(Sun)
『イワン篇・1』
悪魔はイワンに将棋盤と駒を与え、彼に詰め将棋を教えた。それは多忙を極め始めた悪魔が留守勝ちになる事が多くなってきた為、イワンが一人で遊ぶのに不自由しないようにとの配慮からだった。ぽかぽかと暖かいある日の午後、イワンはいつものように陽の当たる縁側に将棋盤を広げ、悪魔の与えた問題集を片手に駒の配置とにらめっこをしていた。それは退屈な午後ではあったが、ともかく幸せな時間には違いなかった。
イワンと縁側を包む幸せな暖気の停滞を破って、突風が吹いた。いたずらな突風は飛車の駒を一つ跳ね上げ、遠くの往来へと飛ばして行った。仕方なくイワンは詰め将棋を中断し、失った飛車の捜索に出掛けた。それは幼いイワンには決して近いとは云えない距離であったが、再会した飛車を右手に大事に握り締めたイワンには安堵の表情が広がっていた。
しかし縁側に戻ると今度は桂馬の駒が一つ、同じように突風にさらわれていた。イワンは一瞬寂しそうな表情を見せながらも、取り返した飛車を盤上にそっと置くと気丈にもすぐに踵を返し、失った駒を求めて足早に去って行った。
イワンはこれから幾つの駒を飛ばされる事だろう。幼いイワンは将棋盤を屋内に退けるという選択肢を知らない。
26/Apr/2001(Thu)
『熟語』
破たん、けん制、わい曲・・・。これらが何を指すかお分かりだろうか。答えは新聞記事における難読熟語のひらがな化である。普段意識せずに新聞を読んでいると読み過ごしてしまうものだが、注意して読むと意外と多くの熟語がひらがな化されている事に気付く。
おそらくこれらはかつて国語審議会が定めた常用漢字表に基づくものであろう。三省堂・新明解国語辞典には常用漢字表について「法令・公用文書・新聞等、一般の言語生活で用いるうえの目安としての漢字の表。一九四五字。内閣告示によって公布」とある。この範疇に収められた一九四五字以外の漢字は無条件・無原則にひらがな化されているのだ。
自分はこれに強く反対し、むしろ怒りすら抱く者である。新聞を読みながら無惨にもひらがな化されてしまったできそこない熟語の諸君に出会うたびに衷心からの同情の念を禁じ得ない。熟語は漢字二字が揃って初めて熟語と呼び得るのである。先に参照した辞書を再び紐解くと、「熟語」の項目には「単純語ではなく二つ以上の単語が複合して出来た言葉」と解説してある。
ここにいう単語とは決してひらがなではなく、あくまでも漢字を指しているのだと信じている。我々が日常使用している漢字はアルファベット等の表音文字とは異なり表意文字であるから、我々は漢字一字を目にした瞬間に即座にその意味する所を理解する事ができる。これに対しひらがなの羅列だけではその真意を瞬時には読み取れない。例えば「冠」という漢字を見れば次の瞬間には我々の頭の中に黄金に輝くティアラのイメージが浮かんでいる(或いは形成の済んだ支台歯に被せる金銀パラジウム合金を思い浮かべる者もいるかもしれない)。しかし単に「かん」というひらがなを見ただけでは「官」なのか「艦」なのか「感」なのか「館」なのか「勘」なのか「缶」なのか「姦」なのか区別がつかない。
熟語は漢字二字が合して初めて成立するものである。片方がひらがなになっているものは熟語とはいえない。片方ひらがな片方漢字などという醜悪な単語を社会の公器たる新聞紙上に載せて平然としているのは日本語を操る者にとっての自殺行為である。文章をなりわいとする以上は常に美しい日本語を追求し提供せねばならない義務を有すると信じている。
一方で教育上の問題もあると考えている。自身の経験から云うと小中学生時代における漢字の習得は学校での机上の勉強よりも新聞から吸収する所が極めて大であった。今でもそうである。従って喩え若年者にとっては難読漢字であっても振り仮名等で充分対応できるのであるから、初等教育段階から複雑な漢字や熟語に触れさせる方がよほど教育効果があるのではないだろうか。
こういう話がある。幼い子供がストーブの傍で遊んでいる。それを火傷しては危ないからと子供を火から遠ざけ、ストーブの火を消すだけではこの子供はいつになっても火の熱さや怖さを知らないままである。ここで真に求められる親の姿勢は子供を火に近寄らせない事ではなく、時には火に触れて熱い思いをしたり火の怖さを知ったりするのを見守りながら、本当に危ない時にだけ救いの手を差し伸べる事であろう。
新聞紙上の熟語の問題もこれと同じだと考える。読むのが難しい漢字だからといって遠ざけているだけではいつまで経ってもその漢字を覚える事はできない。少々難しくても振り仮名という補助手段があるのだから積極的に用いても弊害はあるまい。むしろ利点の方が大きい。現状には何となく小学校の運動会の徒競走で最後に手をつないでゴールするような平成日本の悪平等を想起してしまう。
また漢字には日本独自の訓読みがある。例えば「破綻」の「綻」の訓読みは「ほころぶ」である。「やぶれほころぶ」という訓読みと「はたん」という音読みの重層性と複合性が熟語のイメージを膨らませていき、日本語の豊かな言語世界を生み出す。しかしこれが「破たん」と表記された途端に美しい訓読みの領域を失ってしまう。
もし振り仮名を振れない空間的制約があるとしても、大抵の漢字は意味を表す部首の部分と音を表す部分から成っており、仮に初めて出会う熟語でも多くの場合に読み方を推測できるものである。例えば「撹乱」の「撹」には「覚」があるし、「恫喝」の「恫」には「同」があるので、それぞれ「かく」「どう」と推定できる筈だ。
ちなみに以下は私が新聞を読みながら収集したできそこない熟語のリストである。他にも発見次第、逐時増強していく予定である。
できそこない熟語 |
美しい日本語 |
できそこない熟語 |
美しい日本語 |
破たん |
破綻 |
あ然 |
唖然 |
けん制 |
牽制 |
親せき |
親戚 |
けん引 |
牽引 |
補てん |
補填 |
わい曲 |
歪曲 |
ねつ造 |
捏造 |
終えん |
終焉 |
ばく大 |
莫大 |
わい小 |
矮小 |
ばん回 |
挽回 |
晩さん |
晩餐 |
こう着 |
膠着 |
しゃ断 |
遮断 |
覚せい剤 |
覚醒剤 |
おん念 |
怨念 |
だ液 |
唾液 |
かく乱 |
撹乱 |
漏えい |
漏洩 |
かい離 |
乖離 |
先べん |
先鞭 |
流ちょう |
流暢 |
標ぼう |
標榜 |
きゅう敵 |
仇敵 |
帰すう |
帰趨 |
僧りょ |
僧侶 |
ひん死 |
瀕死 |
推ばん |
推挽 |
ほう助 |
幇助 |
風ぼう |
風貌 |
喝さい |
喝采 |
容ぼう |
容貌 |
せん越 |
僭越 |
舌ぽう |
舌鋒 |
どう喝 |
恫喝 |
先ぽう |
先鋒 |
そ上 |
俎上 |
大たい骨 |
大腿骨 |
失そう |
失踪 |
収れん |
収斂 |
刺しゅう |
刺繍 |
隠ぺい |
隠蔽 |
ひょう変 |
豹変 |
急きょ |
急遽 |
閉そく |
閉塞 |
便せん |
便箋 |
いん行 |
淫行 |
14/Apr/2001(Sat)
『Serendipity』
今日は15時からQ大箱崎キャンパスの記念講堂で催されたノーベル化学賞受賞者の白川博士の講演会を聴きに行った。先日歯学部内の掲示板にポスターが貼ってあるのを見て、これは是非聴きに行きたいと思ったのである。思えば去年の11月にも佐賀で読売新聞社主催によるノーベル賞受賞者のシンポジウムがあり、江崎博士と利根川博士が講演されるというので是非とも聴きに行きたかったのだが、平日の月曜開催で臨床予備実習と重なってしまった為に泣く泣く諦めたという経緯があった。今回はそのリベンジも兼ねての講演会参加だった。
自分はもとより高分子化学の分野は門外漢である。生化学ではない一般化学に関しては高校時代と六本松の教養部で学んで以来絶えて接点を持たずにいる。今日の講演を聴きに行ったのは当然高分子化学の専門的な話を聴くのが目的ではなく、研究者としての心構えや自然科学者としての身の処し方等を学びたかったからである。
講演の前半はノーベル賞受賞理由となった導電性ポリマーの発見の話だった。それによると博士は最初から導電性ポリマーの研究をしていたのではなく、まず実用性のあるポリアセチレンの合成に取り組んでいた。当時ポリアセチレンは合成してもぼろぼろの黒炭のような状態でしか得られず、溶媒にも溶けずほとんど実用性がなかった。
ある日博士の研究室にいた韓国からの留学生がこの合成を試みた所、出来上がる筈のいつもの黒炭状のポリアセチレンがどこにも見当たらなかった。博士は不思議に思って詳しく調べてみたら、溶媒の上に薄膜状のポリアセチレンが合成されていた。この留学生は誤って触媒を加える量を通法の1000倍にしてしまったのである。マニュアルにはmmol/lと書いてあったのにミリを見落としてmol/lで計算してしまったのだ。この偶然がやがて導電性ポリマーの発見につながっていく。
講演の後半は若い研究者や学生へのメッセージだった。博士は「Serendipity」という単語を紹介された。これはある作家の造語で、「思いがけない偶然によって新発見や大発見がなされる事」を意味する単語だそうである。例えばニュートンの万有引力の発見、ワットの蒸気機関の発明、コロンブスの新大陸発見、レントゲンのX線発見、等がそれである。博士のポリアセチレンの薄膜発見もその一つに数えられるであろう。
しかし博士は偶然だけが発見をもたらす要素ではない事を強調され、「新発見の種となるきっかけは常に周囲を漂っているが、それをつかまえる事ができるのはそれを待ち構えている者だけである」という言葉を紹介された。つまり科学の世界で新発見を為すというのは単に道を歩いていて石につまずくようなものではなくて、日頃からアンテナを張り巡らし、いつ如何なるきっかけが訪れてもそれに対する備えができている者だけが栄光をつかめるというのである。
博士は続けて、具体的には「予想された結果だけを重んじるのではなく、予想されなかった結果が出たとしてもそれを誤りであると即断して捨てる事なくつぶさに観察し、記録するという習慣をつけるのが大事である」と話された。先ほどのポリアセチレンの例では、実験者が触媒を加える量を間違えたからいつもの黒鉛状の塊りが得られなかったんだと早々と結論付けて、その結果を捨ててすぐに実験をやり直していたらあのような発見はなかっただろう。やはり博士の「予想されなかった結果も大事にする」という日頃の習慣が実を結んだと云うべきだと思う。
博士は昨年のノーベル賞受賞記念講演の場で科学者として大成する要素や科学者に求められる資質とは何かと問われ、回答として「こだわり」という一言を挙げられたそうだ。博士はアメリカの他の2学者と共同でノーベル賞を受賞したのだが、そのうちの一人もやはり「persistence」という単語を挙げたらしい。persistenceを辞書で引くと「頑固、固執、頑張り、粘り」とある。
最後に博士は京都大学医学部の本庄教授が研究者を目指す者に訓示している「6つのC」を紹介して話を結ばれた。6つのCとは好奇心(curiosity)・勇気(courage)・挑戦(challenge)・自信(confidence)・集中(concentration)・継続(continuity)である。博士は中でも重要なのはあらゆるものに対する好奇心とどんな結果になっても諦めずに継続するこだわりであり、continuityはpersistenceに置き換えてもいいだろうと話された。
今日最も印象的だったのは、講演後の質疑応答で高校生が「研究の醍醐味は何ですか」と問うた時に即座に「今まで分からなかった事が分かるようになり、世界の誰も知らなかった事が分かるようになる事です」と返答された事だった。これこそが科学者の生き甲斐だろう。また他の質問者が「企業に勤めずに大学で研究者になったのは何故ですか」と尋ねた時には「サラリーマンになるのは嫌だった。大学では誰にも指図されず自分の好きな研究ができる。その代わり責任も大きい」と話された。確かに企業では常に結果を出す事が求められるし、会社の方針に沿った研究をしなくてはならない。少なくとも日本では企業の研究者が自然科学系のノーベル賞を受賞した事はなく、全て大学の人間だ。尤も海外ではそうとも限らないと思うが。
ノーベル賞のメダルの裏面には2人の女神像が彫ってある。1人は自然の女神で全身にベールをまとい、もう1人は科学の女神でそのベールを少し持ち上げ、自然の女神の本来の姿を眺めようとしている。科学というものの性質を象徴的かつ端的に表している。今日は自身の進路を考える上でも非常に有意義な一日だった。
12/Apr/2001(Thu)
『クライブ・カッスラー』
いやぁ、気付いたら1年以上更新してなかった(爆) 時の経つのは早いのネ・・・なーんてごまかさずに今度からもうちょっとマメに更新しようっと。
今回のお題はクライブ・カッスラー。アメリカの作家であるが、ほとんどの方はご存知ないのではないかと思われる。純粋にエンタテイメント系の作家で、ダーク・ピットという架空の人物を主人公にした一連の娯楽小説を書いている。
このダーク・ピットという男はアメリカ政府のNUMA(国立海中海洋機関)の一職員という設定で、他の愉快な仲間達と共にいつの間にか大事件や難事業に巻き込まれ、望むと望まざるとに関わらずそれらを解決するよう求められ、すったもんだの挙句にどうにかそれらを解決しちゃう。
このシリーズに最初に触れたのは中学1年か2年の時で、たまたま家に「タイタニックを引き揚げろ」が置いてあった。母に尋ねた事はないしきっと本人も忘れていると思われるが、おそらく母が買ったのだろう。試しに読んでみるとそのあまりの面白さにすっかりクライブ・カッスラーのファンになり、お小遣いを貯めては本屋に走って既刊本を手に入れた。既刊本を全て手に入れたあとは常に次回作を待ち遠しく思い、新作が出るたびに即座に買い求めた。
振り返ってみると多感な中学生の頃にこの本から様々なアメリカン・ジョークや欧米流のユーモアのセンスといったものを学んだ気がする。一例を挙げると、カーチェイスのシーンで主人公達が無線で本部に「先ほどから黒い車に尾行されています」と連絡し、スピードを上げて振り切ろうとしたら相手も負けずに付いてきたので「尾行を追跡に変更」と再連絡する。その直後に相手の車から発砲してきたのを受けて、主人公は無線で「失礼、追跡を襲撃に訂正」と告げる。シリーズ中にはこういう欧米独特のユーモアが随所に散りばめられている。
またこの作品には米・CIAやソ連・KGBのスパイが何人か登場するのだが、彼らの完璧かつ冷徹な仕事ぶりに憧れて一時期本気でスパイを目指した事があった(爆)
最後にオススメの3作をご紹介して終わりにする。
1、「タイタニックを引き揚げろ」
レオナルド・デカプリオのタイタニックが大ヒットする10年以上も前の作品。ひょんな事からダーク・ピットはタイタニック引き揚げ計画の指揮を執る事になるのだが、何故あの巨船を引き揚げる事になったのかは読んでのお楽しみ。そして結末にはあっと驚く大どんでん返しが・・・
2、「マンハッタン特急を探せ」
これも系統は↑と似てるけど、マンハッタン特急にたどり着くまでのピンセットで米粒を積み上げるような緻密なプロセスが読んでて本当に面白い。終盤で思わずハッと息を飲むシーンがあります。作品の雰囲気はシリーズの中で一番好きかも。
3、「ラドラダの秘宝を探せ」
かなり完成された作品。まぁ今読むと予定調和的要素がなきにしもあらずだけど、そこは目をつぶって娯楽小説として楽しみましょう。月面をも舞台に巻き込んだ壮大なスケール。
もくじ

とっぷぺえじ